John Marin(1870-1953)


ジョン・メアリンは、ウィンズロー・ホーマー以後におけるアメリカの最も傑出した水彩画家といわれています。セザンヌを始めヨーロッパ絵画の新しい流れを吸収し、しかも20世紀に活躍したメアリンは、ホーマーのようなリアリスティックな画風を超えていましたが、かといって抽象に走るのではなく、その独自なタッチで、アメリカの都市や自然の風景を力強く描き続けました。今日でも、アメリカ人にとっては、非常に人気のある画家です。

ジョン・メアリンはニュージャージーで生まれ、生後まもなく母親が死んだため、母方の祖父母によって育てられました。父親は公認会計士をしていましたが、自分の息子には関心を払わなかったといいます。7歳の頃からスケッチを好むようになり、18歳から本格的に水彩画を始め、キャツキル山地などを歩き回っては風景画を描きました。彼は生涯風景画家として通し、人物画や静物画はほとんど描きませんでしたが、それは少年時代におけるこのような経験に基づくものだといわれています。

工業学校を卒業後、建築家としてスタートしますが、絵に対する思い入れは強く、28歳のときにプロの画家を目指して、ペンシルベニア美術学校に入りました。この学校では、エイキンスの弟子アンシュッツの指導を受けています。

1905年、35歳でパリにわたり、11年に帰国するまでヨーロッパにとどまりました。その間、セザンヌ、フォーヴィスム、表現主義、キュービズムなどを研究したといいます。当時、ヨーロッパには晩年のホイッスラーが滞在し、現地のアメリカ人のあこがれとなっていましたが、メアリンもホーッスラーに影響された一人です。

メアリンはまた、ヨーロッパ滞在中に、写真家のアルフレッド・スティーグリッツと知り合い、生涯にわたり交友しました。スティーグリッツは1909年にニューヨークの自分のギャラリーでメアリンの個展を開いてやって以来、メアリンのために経済的、精神的な後ろ盾となったのでした。

帰国後、メアリンはニューヨークの街の風景を描きました。それらは、従来のリアリスティックなアメリカ絵画と異なり、清新なイメージに満ちたものとして、好意をもってうけいれられました。大胆な線と半透明な色彩が、当時沸き起こりつつあったアメリカの新しい都市像をよく表現していると思われたのでしょう。

メアリンは、画家としてはスロースターターでしたが、躍進するアメリカの精神を体現した画家として、生前に高い評価を受けるまでになったのです。


             

上の絵は1912年の作品「ブルックリン橋」です。
メアリンは1911年にアメリカに戻った後、ニューヨークの街を題材にした一連の作品を描きます。かれは、同一の題材を繰り返し描くのが好きで、ブルックリン橋の絵は他にも多数描いています。

この絵は、半透明の色彩と太い線による表現が、橋のイメージをよく捕らえたものとして、メアリンの出世作となりました。


             

1912年の作品「ウールワース・ビルディング」
ウールワース・ビルは当時世界一高いスカイスクレーパーでした。メアリンはこのビルの建築過程を時を追って描き、30枚ものシリーズにしています。彼が建築物の絵を好んだのは、建築家としての若い頃の経験が影響しています。


          

1916年の作品「デラウェア郡」
44歳で結婚したメアリンは、以後毎年の夏を妻とともにメイン州で過ごすようになり、ストニントンはじめメインの海の景色や山野の風景を描くようになります。少年時代にスケッチしながらニューイングランドの山野をヒッチハイクした頃の思い出がよみがえってきたのでしょう。

この絵はペンシルベニアの風景を描いたもので、メインではありませんが、この頃の彼の風景画の特色がよく現れている作品です。


          

1932年の作品「ブルックリン・ブリッジ・ファンタジー」
1920年代、メアリンは油彩画に力を注ぐようになり、構図にはキュービズムの影響が現れます。この絵はその延長にあるもので、ブルックリン橋を描きながら、若い頃のものと比べると、明らかな画風上の差異が見られます。20年代は、ディーマスらのプレシジョニズムが盛んな時期でしたので、その空気がメアリンにも吹いたものと思われます。


          

1942年の作品「バック・オヴ・ザ・ウォーター」
メアリン晩年の風景画です。この頃、彼はアメリカ第一の風景画家として、すでに高い評価を受けていました。70歳を超えていたにかかわらず、画面には力強さが見られます。

          



       

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