Egon Schiele(1890−1918)


第一次世界大戦前夜のヨーロッパに一人の天才芸術家が出現しました。彼はドイツ文化圏の周縁部から彗星のように現れ、ひときわ明るい光芒を放ちながら消え去っていきました。その名をエゴン・シーレといいます。

絵画史上シーレほど型破りな画家はいなかったといえましょう。既に十代にして才能を開花させたこの画家は、妹との近親相姦、多くの少女たちとのみだらな生活、それがもとでの逮捕投獄事件など、若年の頃から世間と相容れないヴァガボンドな生き方をしました。描いた作品にはポルノグラフィといえるようなものが数多く含まれ、一時期には金を得るために猥褻な絵を描いて売ったこともありました。第一次世界大戦が勃発すると、アウグスト・マッケやフランツ・マルクが若くして戦場に倒れたのに対し、この若者は既に確立していた画家としての名声に助けられ、戦闘の脅威を避けることができました。しかし、戦後ヨーロッパ中を襲ったスペイン風邪にかかり、28年の短い生涯をあっけなく終えてしまったのです。

エゴン・シーレはオーストリアの鉄道技師の子として生まれました。父親は梅毒がもとでシーレが14歳の時に死んでいます。シーレはこの父親に深い愛着を覚える一方、母親を愛することはついにできませんでした。シーレの複雑怪奇な言動ぶりは、こうした家庭環境に由来していると思われます。

1906年、16歳のとき、シーレはウィーンの美術アカデミーに入学しました。その翌年にはグスターフ・クリムトと出会い、指導を受けるようになります。クリムトはこの少年の才能を見抜き、なにかと世話を焼く一方、画商にも紹介してやりました。その結果、早くも18歳にして初の個展を開いています。シーレは後に、ドイツ表現主義の流れを汲む画家であるとか、クリムトの後継者といわれるようになりますが、クリムトとの師弟関係は別にして、その画風はどんなレッテルにもあてはまらない型破りな相貌を呈するようになったのです。

1909年、シーレは美術学校をやめて、ウィーン市内にアトリエを持ち、画家としての生活を始めました。その頃の彼は思春期の少女に異常な関心があり、街でそのような少女たちを誘ってはアトリエに連れ帰り、裸にしてポーズをとらせたりしました。この頃のシーレの絵には、自画像と共に、こうした少女たちのポルノまがいの絵が多数あります。シーレは16歳のときに、妹のゲルティとの間で近親相姦まがいのことを犯しており、女性に対して得体の知れない感情をもっていたことを伺わせます。

1911年、シーレは17歳の少女ヴァレリー・ノイツェルと出会い、生活を共にするようになります。ヴァレリーはウィーンでの生活を嫌ったため、二人は田園を求めてクルーマウ、ついでノイレンクバッバへと移り住みました。クルーマウでは住民の反感を買って追い出されたといわれます。またノイレンクバッハにおいても、ウィーンでの時と同様、シーレは相変わらず近隣の少女たちを誘っては自宅で遊ばせるようになりました。そうこうするうちに、そうした少女の親から誘拐のかどで訴えられ、逮捕される事件が起こりました。その折に自宅の捜査を受け、少女たちのヌードを描いた絵を発見されて没収されたうえ、法廷で焼却されています。

こんな不名誉な事件にかかわらず、異色の画家としてのシーレの名声は、折々の展覧会を通じて確立されていくようになります。

1915年、シーレは近隣に住むハルムス家の姉妹エディットとアデーレ二人から愛されるようになります。結局エディットと結婚することにしましたが、その結果ヴァレリーは捨てられる形となりました。彼女に対してシーレは、結婚後もこれまで同様二人だけでデートをしようと手紙を出しています。彼女は憤然と断りシーレのもとを去りました。その後彼女は看護婦となって戦場に赴き、1917年にダルマチア戦線で死亡しました。

一方のシーレも、エディットとの結婚直後に召集されました。しかし、彼の配属先はロシア兵捕虜を扱う後方部隊で、前線に赴かされることはありませんでした。軍では彼の画家としての名声を考慮し、引き続き画業に便宜を計らう一方、広報活動に利用しました。

1918年、シーレは分離派の大展覧会に招かれて出展し、そこに「最後の晩餐」と題する作品を発表しました。ダヴィンチの絵をもじったもので、中央のキリストにあたる人物には自らの肖像をおいています。彼のナルシシズムを象徴する出来事でした。

その年、ヨーロッパには鳥インフルエンザから変異したスペイン風邪が大流行しました。流行の第二派の中で、妊娠中だったエディットが倒れました。シーレはエディットの生前、一通のラブレターを出したこともなく、また優しい言葉をかけたこともなかったとされます。そんな彼でも、やはり妻を愛していたのでしょう。その死に深い喪失感を覚え、三日後に同じ病気にかかって、後を追ったのでした。


                

上の絵は1910年の作品「黒髪の少女のヌード」です。画家としてスタートしたこの頃、シーレは好んで自画像を描いたほかは、売春婦や街の少女たちをアトリエに連れ込んでポーズをとらせました。この絵はそんな少女の一人を描いたもので、シーレの女性に対するコンプレックスを物語る作品です。背景と人物はコントラストの中におかれず、相互に侵食しあうような色使いが見られる一方、人物の輪郭は明確な線によって区切られています。シーレの絵の特徴は、インクやクレヨンを用いて輪郭を強く描くことにありますが、この絵にもその特徴がいかんなく発揮されています。また、前半期のシーレの人物画には手足を省いたものが多く見られます。この絵でも手の詳細は省略され、足は画面からはみ出ています。


               

1912年の作品「芸術家を抑圧するのは犯罪である」  この年、シーレは婦女誘拐の罪で訴えられ、3週間あまり投獄されました。シーレのもとに転がり込んできた少女の親がシーレを訴えたのです。結局訴えは取り下げられましたが、家宅捜査を受けてヌードの絵を没収され、それに対して「公序良俗違反」の判決を被りました。この絵は獄中で描いた自画像です。題名からしても、シーレの自尊心がよく現れています。この絵でも手足を露出させない工夫がみられます。


         

1912年の作品「ブロンドの髪の女」  前年に知り合った女性ヴァレリーはシーレより4歳年下でした。シーレはこの女性と4年間同棲し、その間に彼女をモデルにした絵を多数描いています。これもその一枚かと思われます。強い線によって人物を生き生きと描いており、シーレのデッサン力の確かさを物語っています。


             

1915年の作品「ゲルティ・シーレの肖像」  シーレは妹のゲルティとは特別の関係にありました。少女時代には裸にしてはポーズをとらせました。16歳になるといやがるようになったので、やむなく他の少女へと対象を変えたのだともされています。この絵はゲルティが21歳のときの肖像画です。この年シーレはエディットと結婚し、新しい生活へと出発しようとしています。そんな折に妹を描いたこの絵には、エロチシズムの陰が見られません。


         

1917年の作品「横たわる女性」  妻のエディットを描いたものと思われます。従軍中にかかわらず、シーレは比較的自由を保障され、軍務の合間をぬって創作する余裕があったのです。


               


1917年の作品「膝を折り曲げた女性」  これもエディットを描いた作品と思われます。足がカットされているのは相変わらずですが、色彩はより豊かになっています。シーレの作品の中でも、もっとも有名なものの一つです。





       


            東京を描く水彩画水彩画の巨匠たち

                        

エゴン・シーレ : 水彩画の巨匠たち