モーリス・プレンダーガストー水彩画の巨匠たち



Maurice Prendergast(1858-1924)


モーリス・プレンダーガストは19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ絵画を代表する画家であり、多くの水彩画を残しました。

19世紀のアメリカ絵画は、ウィンズロー・ホーマーに代表されるように、自然や人間そして動物たちを力強くリアリスティックに描くことに特徴がありました。プレンダーガストは、そうしたリアリズムから一歩踏み出して、独自の世界をアメリカ絵画にもたらしました。その画風は時に後期印象派に括られたり、また抽象的とも呼ばれましたが、明るく伸びやかな作品群はアメリカ絵画の伝統に清新な空気を吹き込むものであり、19世紀と20世紀を橋渡しした画家であるとされています。

モーリス・プレンダーガストはカナダのニューファウンドランドに生まれ、少年時代にアメリカのボストンに移住しました。父親の破産によって家が貧しかったため、高等教育を受けることなく、14歳で働き始めています。しかし勤め先がポスター製作などを手がける美術系の会社であったため、絵画と縁のあるスタートを切ることができました。

1892年、プレンダーガストは弟のチャールズとともに、自分たちの才能を評価してくれるパトロンの援助によりパリに留学しました。プレンダーガストはアカデミー・ジュリアンに入ることとしますが、そこは当時、ピエール・ボナールやエドゥアール・ヴイヤールなどナビ派といわれる若い画家たちが集まっており、清新な雰囲気に満ちていました。

ナビ派は後期印象派の一分派であり、大胆な形態と強烈な色彩を身上としていました。プレンダーガストは、ナビ派との交流を通じて自分の画風を確立し、フラットな構図と鮮やかな色彩を特徴とする絵を描くようになります。そのため、プレンダーガストを後期印象派に分類する見方が生まれたのですが、彼の作風はナビ派とはかなり異なっており、独特の雰囲気をもっています。

3年間のパリ留学を終えてアメリカに戻ってからは、商業イラストレーターとして再出発しますが、1898年、意を決してイタリアに渡り、画家として自立する道を選びます。イタリア滞在中の1年半はプレンダーガストにとって最も実り多き年となります。

新しい世紀を迎えたアメリカの絵画界に、プレンダーガストの絵は様々な波紋を投げかけるようになります。当時アメリカには、アッシュ・キャン・グループ(灰皿派)という新しいリアリズム風の芸術運動が起こり、プレンダーガストも彼らと共に作品を出展したりしますが、彼の作風はリアリズムとはかけ離れたものであり、そのため風変わりとか、場違いとか、散々な評価を受けたりします。

プレンダーガストの作品の大部分は、人間の群像をのびのびと描いたもので、明るい色彩感覚とあいまって、あたたかいヒューマニズムを感じさせます。自身は病弱で生涯独身を通し、弟のチャールズに何かと世話になりますが、その一生は作品から受ける印象を裏切らないものだったようです。


         

上の絵は1895年の作品「サウス・ボストン埠頭」です。
パリ留学を終え、ボストンに戻った直後に描いた作品と思われます。テーマは埠頭の風景というより、楽しそうに往来する人々の姿にあります。風景を地として、夥しい人々の群像を配し、前面にはピクニック気分の少女たちを据えています。構図は単純でしかも奥行きを考慮せず、鮮やかな色彩によってアクセントをもたらしています。プレンダーガストのその後の画風を決定付けた作品といえます。


           

1898年の作品「サン・マルコ広場」
この年イタリアにわたったプレンダーガストは、ヴェニスの町を描き続けました。彼はこの旅行の費用を、ボストンの絵画収集家サラ・シアーズから得たこともあり、サラのために多くの絵を仕上げました。それらは、今日でもプレンダーガストの最良の作品群とされています。

この絵は、プレンダーガストの作品には珍しく、鳥瞰図的な複雑な構図を採用していますが、小さいながら生き生きと動き回る人々の影と、3本の旗の鮮やかな色彩は、彼一流の作風を感じさせます。


          

1901年の作品「メーデー」
ニューヨークのセントラルパークで行われたメーデーの様子を描いた作品です。お祭の遊びに興ずる夥しい少女たちは、一人一人の表情は明らかではありませんが、それでもその笑顔が見る人に伝わってくるような感じをさせます。


          

1911年の作品「リアルト橋」
1911年から翌年にかけて、プレンダーガストは再びヴェニスに滞在します。この絵はその折に描いたものです。前期の絵と比べて、筆使いに多少の変化が現れているようにも思えます。

1907年に、彼はパリでセザンヌの絵を研究し、その画風に深く動かされたことがありますが、その結果が筆使いのこのような変化に結びついたのかもしれません。


          

1920年の作品「ロングビーチ」
最晩年にいたって、プレンダーガストの画風には大きな変化が現れます。それまでの、細密画的な丁寧なデッサンに代わって大まかな描写がされるようになり、色使いも大まかになります。なかにはわざと未完成な部分を残し、絵に新しいインパクトをもたらそうと努めているものもあります。こうした努力は、かえって若い世代のジョージア・オキーフなどを刺激することもありましたが、前半期の作品と比べて完成度が低いと評価されるようになりました。

死後、プレンダーガストは一時期忘れられた存在となりましたが、近年になって再び評価を受けるようになりました。色々な意味で、アメリカ絵画の歴史に大きな足跡を残した作家とみなされたのです。

          




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