ジョン・コンスタブルー水彩画の巨匠たち



John Constable(1776-1837)

ジョン・コンスタブルはロマンティシズム絵画全盛のイギリスにあって、カズンズやガーティンの影響を受けつつも、ロマンティシズムの枠に収まらない独自の境地を開いた画家です。

コンスタブルは主に風景画を描きましたが、その作風は、ほかの同時代作家とは異なり、自然を深く理解し、自然の時々の表情を生き生きと再現しようとしたものでした。たとえばターナーは、眼前の自然を描くのに際し、ウェット・イン・ウェットの技法を多用しながら、自分なりに解釈した自然を描こうとしましたが、コンスタブルは、そのような解釈をはねつけ、あくまでも自然をして自ら語らしめるといった態度をとっています。

このような画風は、ロマンティシズム全盛の時代にあって、かならずしも世間の受け入れるところとはならず、実際彼の絵は生前のイギリスでは、わずか20点が売れただけだといわれています。

しかし、イギリスにおいては時代の枠をはみ出た彼の作品は、フランスでは評価され、ドラクロアやジェリコーなどの同時代人から、バルビゾン派を経て、後の印象主義の画家たちにいたるまで、インスピレーションを与え続けました。イギリス人の画家としては珍しく、国際的な広がりをもった画家でした。

コンスタブルの画家としてのスタートは、そう早いものではありませんでした。サフォーク州の製粉業者の子として生まれたコンスタブルは、22歳まで家業を手伝い、23歳で始めて、ローヤル・アカデミーでの教育を受けています。しかし、26歳の時には作品を展示するなど、その進歩は早かったようです。

コンスタブルは、イギリスの地方を旅行しては、膨大なスケッチとともに、そのときの自然の光や雰囲気を詳細にメモしました。こうした体験が、自然をありのままに描くという彼の作風を育んだのだと思われます。

1816年、長い間の交際を経て、マリア・ビッケルと結婚しました。マリアの父は、コンスタブルとは家柄が違うという理由で、娘がコンスタブルと結婚することには反対していたのですが、二人が出会ってから5年後に許したのでした。この父親は、なにがしかの遺産を残してくれましたので、絵が売れずに貧しかったと思われる、コンスタブル夫妻の経済を支えることともなったようです。

マリアは、7人の子を産んだ後、肺結核にかかり死亡しました。マリアの死後、コンスタブルは喪服を着て過ごすようになり、7人の子を男手ひとつで育て上げました。

マリアの死の前後、コンスタブルの絵は、フランスにおいて好評を博しました。それで、理解者のいないイギリスよりも、大陸に活路を求めてはと誘われたりしますが、コンスタブルは「外国で有名人になるより、イギリスで貧乏人のままいた方がましだ」と答えたといわれます。おそらく、マリアや子供たちへの配慮があったからでしょう。


          

上の絵は、1830年の作品「雲の習作」です
コンスタブルは、風景画を描くにあたって、自然のディテールともに雰囲気を大事にしました。雰囲気といっても、自然そのものがかもし出す、客観的なものとして捕らえられた雰囲気です。それは天候であったり光であったりするわけですが、とりわけ重要なのは、空とそこにかかる雲の表情でした。そこで、コンスタブルは、繰り返し空と雲を描くことによって、自分の画風の充実を図りました。コンスタブルは、ある手紙の中で次のように書いています。

「空が基調となっていない風景というものは考えられない、、、空こそは、自然の中において光の源泉であり、すべてを支配している。」

この作品も、幾重にも折り重なった雲を描くことで、空の持つ複雑な表情を見事に捕らえているといえます。


          

1833年の作品「丘の上の小屋」
コンスタブルの油彩の大作の殆どは、野外での水彩スケッチをもとに、屋内で完成したものです。それらの水彩スケッチは完成度の高いものであり、しかもスケッチに添えて、詳細なメモが作成されました。

この作品も、そうした水彩スケッチのひとつと思われます。風景の雰囲気を写し取ることを主眼にして、手早いブラッシュワークが施され、絵の具は素描なしに直接塗られています。コンスタブルにとっては、自然は刻々表情を変え、一時として同じ状態にはとどまらないものでした。それゆえ、なるべく迅速に自然の全体像を捉える必要がある。そうでなければ、風景は逃げていってしまうのでした。

このような技術は、長い屋外写生での経験からもたらされたもので、風景画家としてのコンスタブルの強みとなっています。


          

1835年の作品「ストーンヘンジ」
コンスタブルの水彩画の代表作とされるものです。この作品で、彼は水彩画技法の集大成とも言える成果を盛り込んでいます。2本の虹を配した暗い空が、画面全体の雰囲気を決め、前景に明るく描かれたストーンヘンジが引き立って見えます。

この作品は、1836年に展覧会に出品されましたが、その際コンスタブルはタイトルの欄に次のように書き入れました。

「ストーンヘンジの神秘的なモニュメント、それは不毛の果てしない大地の上に立ち、現在とも、また過去の出来事とも無関係に、あらゆる歴史的な記録の届かぬ、知られざる時代の闇の中へと、人を誘う」

死の前年に書かれた言葉だけに、ある種の迫力が伝わってくるようです。




       

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