ワシリー・カンディンスキーー水彩画の巨匠たち



Wassily Kandinsky(1866−1944)

ワシリー・カンディンスキー(彼はロシア人ですので、ヴァシーリー・カンジンスキーと表記するのが自然ですが、ここでは慣用に従います)は、現代抽象絵画の創設者として、絵画史上特筆される存在です。その影響は測り知れないものがあり、今日に至るまで、抽象絵画を目指す画家たちのインスピレーションの源泉となってきました。

セザンヌ以後、ヨーロッパの絵画はさまざまな革新的潮流を生み出しました。19世紀末から20世紀初頭にかけ、後期印象派、表現主義、フォーヴィズムといった運動が次々と起こり、従来の伝統を越えた個性的な絵画が現れるようになります。それらの運動は、目前の対象をそのままに表現するのではなく、画家の内面を通して再構成した上で、それを自由に表現するという態度をとってきました。しかし、カンディンスキーに至って、およそ見えるものの形にとらわれない、純粋に抽象的な絵画が出現したのです。

カンディンスキーの抽象画の源泉として音楽があげられます。彼の抽象画の記念碑とも言うべき作品群、インプロヴィゼーションとコンポジションはいずれも音楽と共通タームです。ワーグナーの音楽に深く傾倒したカンディンスキーは、音楽の本質を時間の芸術という面に見ました。音楽とは、音によって満たされた時間の流れであり、聞くものの精神を音によって導きながら、時間の広がりの中でその想像力を開放し、強い情動を起こさせます。こうすることによって、人間の生を豊かなものにする作用を持つというのが、彼の信念でした。

これに対し、平面の芸術である絵画は、形あるものを指示し、あるいは説明するという作用にとどまり、人の想像力を解放する力には劣っているのではないか、カンディンスキーはこう考え、絵画にも人の想像力に訴える要素を求めました。

カンディンスキーの時代、音楽の世界にも新しい流れが押し寄せていました。モノフォニー、シンフォニーからポリフォニーへの流れです。この流れを理論的、実践的に主導したのはシェーンベルグでした。ポリフォニーとは同時並行して様々な音が重層的に響きあう音楽です。単にメロディやハーモニーにとどまらず、音を通じて宇宙の鼓動が伝わってくるような、そんな新しい音楽をめざしたものでした。

文学の分野では、ロシア人の思想家ミハイル・バフチーンがドストエフスキーの作品を読み解くことから、ポリフォニーの概念に到達しました。バフチーンはドストエフスキーの作品に単線的な物語の進行にとどまらない、多層的、重層的にからみあう人間の情念や出来事のコンプレックスを見出したのです。こうして、ポリフォニーは音楽を超えて、様々な芸術分野を通底する運動理念になりつつありました。

ところで、世紀の移り変わりのこの時代に、芸術の各分野でロシア人の果たした役割には目を見張るものがあります。現代バレーの創始者ディアギレフをはじめ、音楽におけるストラビンスキー、詩人のパステルナーク、劇作家チェーホフ、文学者エレンブルグ、そしてカンディンスキーです。あの革命家レーニンも、ある意味ではパフォーマンスの芸術家だったといえます。(学生時代ロシア語を学んだ小生にとって、同時代のソ連がいかがわしさに満ちていたのに対し、革命前夜のロシアは、知の巨人たちが闊歩する偉大な時代に映ったものでした)

カンディンスキーはモスクワの中流家庭に生まれました。両親が離婚したため父とともにオデッサで少年時代を過ごし、モスクワ大学で法律と経済学を学びました。卒業後は法律学者として出発しています。そんな彼が芸術に目覚めるのは、モネの絵とワーグナーの音楽に接したことにあったといわれています。時に30歳のことでした。

ミュンヘンに出て画家アズベの下に学び、またアートスクールでは10歳以上年下のパウル・クレーと交友を持ちました。ひとり立ちすると前衛画家グループファランクスの活動に参加し、若い画学生に絵を教えたりしていますが、その時の教え子の一人ガブリエーレ・ミュンターと暮らすようになります。そのため、最初の妻アンナと離婚しました。

ミュンターとともにパリやムルナウなどを転々とした後、1908年以降はミュンヘンに腰を落ち着け、多作な時代が始まりました。初期の彼の絵はフォーヴィズムの影響が強いものでしたが、1910年にインプロヴィゼーション、1911年にコンポジションを発表して、抽象画家としての名声を確立しました。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、カンディンスキーはスイスのゴルダッハを経由してロシアに戻りました。そして革命後もロシアにとどまり、新政府のために尽力しましたが、次第に強まるプロレタリア・リアリズムにうんざりして、1921年に再びドイツに舞い戻りました。ロシア滞在中、彼は30歳も年下の女性ニーナ・アンドレーエフスカヤと結婚しています。

ドイツでは、グロピウスの招きに応じてワイマールのバウハウスで教鞭をとりました。1928年にはドイツ市民権を獲得しましたが、ナチスの台頭によってバウハウスが閉鎖されるに至ったため、1933年にフランスに亡命しました。そして、パリ郊外の町ヌイイー・シュル・セーヌで1944年に没するまで、多産な創作活動を続けました。


          


カンディンスキーは初期の具象画においても非凡な才能を垣間見せていました。青い騎士などの表現派グループやフォーヴィストたちの影響下に描かれたそれらの絵は、ファンタスティックな図柄にコントラストの強い色彩配置が特徴で、ロシアのフォークロアを思い出させるものがあります。

上の絵は1910年の作品「水彩による始めての抽象画」です。この年、彼は油彩の抽象画インプロヴィゼーションを発表してセンセーションを巻き起こしますが、それと前後して描かれたものです。彼はある時、自分の作品を薄暗闇の中で、しかも逆さの状態で見て強い感銘を覚え、具象にこだわらなくとも絵画は成立するのだと確信しました。初期の抽象画はその時の感動を定着させようとする試みであり、点と線と面による自由なイメージ形成と、色彩の重なり合いによって、ポリフォニックな世界の創造を目指していました。

          


上は1913年の作品です。1911年以降、カンディンスキーはコンポジションと題する一連の作品を通じて、自らの芸術を深化させていきます。タイトルから察せられるとおり、それらの作品は音楽を強く意識したものでした。それも、シェーンベルグが実践していた新しいポリフォニーの音楽です。ポリフォニーは、音楽の要素である音階、旋律、ハーモニーといったものを一度解体して、それらを重層的に再構成しようとする試みでした。カンディンスキーは絵画の要素である形態、色彩、色調といったものについて、同じような試みを行ったのです。


               

カンディンスキーのロシア時代の作品は余り残されていません。しかし、バウハウス時代以降も彼は旺盛な創作活動を続けました。

上は1924年の作品「ヴァイブレーション」です。この頃彼は、昔の同僚パウル・クレーとの交友を取り戻し、互いに影響しあうようになっていました。この絵にもクレーの影響が見られます。クレーの特徴は、形を単純化し比喩的なものにすることによって、見る人の想像力を活発化させるところにあります。この絵にも、建物と橋らしいものが隠喩的にえがかれ、見るものを想像力の世界にいざなうところがあります。


              

1928年の作品「闇の中へ」この作品にもクレーの影響が見られます。まず形態配置については、クレーが好んだ積木細工を思わせるような構図がみられます。また、型紙を利用してマスキングをほどこし、その上から絵の具をスプレーで吹きつける方法がとられていますが、これもクレーがよく用いた方法でした。


              

死の前年、1943年に描かれた作品です。当時カンディンスキーが暮らしていたフランスはナチスによって蹂躙され、彼はアメリカへの亡命を進められたりもしましたが、ついにフランスに踏みとどまり、死の直前まで創作の手を緩めませんでした。
彼の78年の生涯は、自分の信念を貫いた、波乱に富んだものだったといえます。




       

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