Paul Klee(1879−1940)


パウル・クレーの芸術は、abstract expressionism(抽象的表現主義)とかtranscendentalism(超越主義)とか評されています。ドイツ表現主義運動の一員として出発し、生涯の友人カンディンスキーとの交流の中で互いに影響しあったクレーには、たしかにこのような評語が当てはまるところがあります。しかし、他方ではシュルレアリズムやキュビズムの精神をも貪欲にとりこみつつ、その作品は非常に多彩なものにわたり、単純なラベルには収まりきれないものがあります。

多産で多彩なクレーの作品群に一本の糸筋のようなものを見ようとすれば、それはプリミティヴなものへの憧れと、子どもの純粋無垢な態度への傾倒であるといえましょう。クレーの作品の多くに見られる特徴は、シンプルで力強い形態配置と強烈な色彩感覚です。まるで絵本の世界をみるようなそれらの作品は、20世紀の絵画芸術の中でも、もっともメルヘンを感じさせるものです。

パウル・クレーはドイツ人音楽一家の子として、スイスに生まれました。幼年時代に音楽を学ぶ一方、母方の祖母から絵の手ほどきを受けました。音楽の腕も一流で、ベルン・オーケストラのバイオリニストにもなっていますが、十代半ばで画家になることを決意し、ミュンヘンの美術学校で修行しました。この学校では、十歳以上年長のカンディンスキーと出会い、生涯交流することとなります。

卒業後ヨーロッパ各地を旅行し、1906年にはミュンヘンに落ち着いて、音楽仲間だったスイス人ピアニストのリリー・シュトゥンプと結婚しました。絵の方面では、1911年にカンディンスキーと再会し、翌年の「青い騎士」展に出品するなど、表現主義の流れを歩み出します。

1914年、クレーはアウグスト・マッケ及びルイ・モアイェとともにチュニスに旅行しました。このときに見たアフリカの強烈な光が彼に劇的な影響を及ぼします。それまでの彼は、エッチングやモノトーンな作品を描いていたのですが、アフリカの光が彼を色彩へと駆り立てたのです。“色彩が私を捉えた、もうそれを追いかけることはない、色彩と私は一つに融合したのだ、こうして私は画家となった”これは彼自身の言葉です。彼はフランスのシンボリストに依拠して色彩理論を研究したりしていますが、この言葉にはまるで、アルチュール・ランボーのような響きを感じます。

第一次世界大戦が勃発すると、彼はドイツ軍に入隊して、飛行機に模様を描いたりします。戦後はミュンヘンでの展示会に成功をおさめ、次第に画家としての名声を確立しました。1921年にはグロピウスに招かれてバウハウスの教授となり、カンディンスキーと共に美術を教えます。このバウハウス時代の約10年間がクレーの最も充実した期間でした。

しかし1933年にナチスが政権をとると、彼は「堕落した芸術家」の烙印を押され、安全を求めてスイスに移らざるを得なくなりました。また1935年には、膠原病と思われる難病を発症し、創作力が次第に衰えていきます。最晩年のわずかの時期、再び創作力が高まり、死の前年には1200もの作品を作ったりもしますが、亡命先のスイスの市民権を得られないまま、60歳で亡くなりました。


          

上は1914年の作品「ハマメットのモスク」 クレーの転機を記念する作品の一つです。画面をいくつかの幾何学模様に分割する手法はキュビズムから取り入れたもので、それらを強烈な原色で埋めています。アフリカの光が彼を駆り立てた結果出来上がった作品です。

これ以前のクレーは、色彩のコントロールに長い間自信がもてないでいました。そのため黒インクのみによる作品やエッチングを作っていたのですが、この作品では、思い切って単純化した構図に透明度の高い絵の具を重ねることで、ピュアな色彩感が演出されるに至っています。


               

1919年の作品「チュニスの庭園」 クレーがカンディンスキーと異なるところは、具象と抽象の間を微妙に往復するところにあります。カンディンスキーの絵には、時に極端に観念的になる傾向がありますが、クレーの絵は単純化されデフォルメされていても、常に現実とのつながりがみられます。そこが、彼が広い人気を得るようになった秘密です。

この作品にも幾何学模様による抽象化がみられますが、それでも現実とのつながりは断ち切られておらず、見るものはこの作品を通して庭園のイメージを思い浮かべることができます。


                

1921年の作品「アダムと小さなイヴ」 クレーの最も充実した時期、バウハウス時代の幕開けを記念する作品の一つです。

クレーの愛すべき作品ジャンルの一つに、ユニークにデフォルメされた人物像があります。クレーは子どもの絵をヒントにしてこれらの作品を描いたと、自らいっています。まさしく、子どものような純真さを感じさせる絵です。


            

1934年の作品「秋風のディアナ」 クレーは水彩画の技法に革新をもたらした画家でもあります。型紙の上からスプレーで絵の具を吹きつける手法などは有名ですが、用紙そのものにも工夫を加えました。単に水彩紙に色をおくだけではなく、薄布なども含め様々な素材を板に張り付け、それに油絵の具やチョークで下地を作ったりして、テクスチャーつくりを楽しんでいます。この作品にも、そのような新しいテクスチャーが認められます。

女神ディアナが秋風に向かって立つこの絵は、スイスへの亡命直後に描かれました。暗黒へと向かいつつあるヨーロッパ世界を秋風にたとえ、それに立ち向かう女神を描くことで、時代への強いメッセージを発したかったのかもしれません。


               

1939年の作品「偶像の園」 彼は死の前年であるこの一年の間に、なんと1200の作品を制作しました。一口に1200といいますが、そのエネルギーは想像を超えたものです。

この作品は、黒い下地のテクスチャーを生かしたメッセージに富んだ作品となっています。病魔と闘いながら搾り出した、白鳥の歌ともいうべき作品です。
          




       


            東京を描く水彩画水彩画の巨匠たち

                         

パウル・クレー:水彩画の巨匠たち