Paul Gauguin (1848-1903)ポール・ゴーギャン(ゴーガンとも表記する)は、印象派に続いて絵画史の舞台に登場した画家です。あまりにも強烈で自己主張の強い絵を描いたため、絵画史上では特異な存在ですが、今日では、ヴィンゼント・ヴァン・ゴッホと並んで、19世紀末を代表する偉大な画家として認められています。 ポール・ゴーギャンの絵は、油絵が中心であり、水彩画は油絵を完成するための準備作業として描いたものがほとんどですが、中には独立した水彩画作品もいくつか製作しています。 ポール・ゴーギャンの絵は、ゴッホ同様あまりにもユニークなため、絵画の歴史上特定の潮流には分類しがたく、ゴーギャン・イズムとでもいうほかはないのですが、その特徴は、遠近法を無視したフラットな画面構成と強烈な色彩感にあります。ゴーギャンほど原色を多用し、豊かな色彩配置にこだわった画家はいないといえましょう。色彩の魔術師というに相応しい画家なのです。 ポール・ゴーギャンは1848年7月パリに生まれました。父親は共和主義者でしたので、1849年にルイ・ナポレオンが帝政を敷くと、ペルーに亡命しました。その船旅の途中父親が死んだため、一家は豊かな親戚を頼って、リマに定住しました。 1855年、ゴーギャンの母親は子どもをつれてフランスに戻り、オルレアンに落ち着きます。1865年、ゴーギャンは船乗りになり、南米を中心に世界を旅しました。この時の経験が後に、彼をタヒチに導いたのでしょう。1868年、20歳のときフランス海軍に入りました。 普仏戦争後に海軍をやめたゴーギャンは株のブローカーになります。彼はそのときに知り合ったエミール・シュッフェンネッカーとともに絵を始めるようになったのです。 1873年には、デンマーク人のメットと結婚し、後に5人の子どもをもうけています。1874年には、ピサロと出会い、後にはセザンヌとも交流しながら絵の修行を続けますが、初期のゴーギャンの絵は後期印象派の影響が強いものでした。だが、彼は次第に印象派を脱却し、単純で強烈な色彩配置やフラットで装飾的な構成を取り入れるようになります。 1883年、ゴーギャンはブローカーを辞めて画業に専念するようになり、1885年には家族をコペンハーゲンにおいて単身パリに住み着きます。ゴーギャンとメットとの仲は、これ以後生涯を通じて険悪なままに終ったといいます。 1888年、ゴーギャンはヴィンセント・ヴァン・ゴッホと運命的な出会いをします。ヴィンセントの弟テオは画商をしていましたが、そのテオがゴーギャンを兄に引き合わせたのです。二人は南仏のアルルで共同生活を始めましたが、ゴーギャンはゴッホを好きになれず、二人の関係はわずか2ヶ月で破綻します。精神の錯乱状況に陥ったゴッホが、自分の耳を切り落とすという事件を起こしたのです。気味が悪くなったゴーギャンはゴッホのもとを去りました。 1891年、ゴーギャンはタヒチに旅行しました。ここで自伝的な作品「ノア・ノア」の執筆をしますが、「うつ」に陥り、1893年にはパリに戻っています。しかし、タヒチで製作した絵は、パリでは多くの買い手を見出しました。 1894年にコペンハーゲンの家族と最後の別れをしたゴーギャンは、翌年の1885年再びタヒチに旅立ち、2度とフランスに戻ることはありませんでした。 晩年のゴーギャンは、梅毒に犯され健康が次第に悪化しました。また「うつ」の症状もひどく、1898年には自殺を図っています。反面、創作のほうはいよいよ円熟を増し、1897年には畢生の大作「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処へ行くのか」(139×375cm)を描いています。 1901年、ゴーギャンはタヒチからドミニク諸島のアトゥアナに移りました。 1903年、ゴーギャンは植民地当局と衝突し、3ヶ月の懲役という判決を受けました。原因は宗教上のトラブルにあったようです。だがゴーギャンは、入牢する直前に死亡しました。 経歴から読み取れるように、ポール・ゴーギャンの生涯は波乱に富んだものであり、また、妻やゴッホとの関係から伺われるように、特異な人格を感じさせます。どうみても、友人として付き合うには気の進む人物とはいえないようです。だがその作品は、絵画史上に燦然と輝くすばらしいものです。 上の絵は、1879年頃の作品「アリーヌ・ゴーギャン」です。画家として自信を持ち始め、展覧会に出品するようになった頃の作品で、まだ印象派の影響が色濃く見られます。 アリーヌは、ゴーギャンにとっては二番目に生まれた子です。ゴーギャンは5人の子の中でも、アリーヌを一番愛していたといわれます。絵の才能もあったようで、ゴーギャンの期待も大きかったのですが、1897年になくなりました。娘の死の知らせをタヒチで受けたゴーギャンは、打ちのめされたように落ち込んだといいます。 1893年の作品「神秘の水」 一回目のタヒチ滞在中に描いた水彩画です。タヒチでのゴーギャンの絵は、南国の太陽を思わせるように、次第に色彩豊かになっていくのですが、この水彩画にも、そうした雰囲気が反映しています。 1896年の作品「美の女王」 タヒチ時代にゴーギャンが描いた現地の女性は数多くいますが、ゴーギャンは彼女らとは、モデルとして以外にも付き合ったようです。若い愛人もいたようで、名をパフラといいました。この絵はそのパフラを描いたものと思われます。当時彼女はまだ14歳であったといいます。 1896年頃の作品「花瓶」 ゴーギャンは水彩画においても、色彩の可能性を追求しました。この絵も、暖色を中心にして、燃えるような色彩感をかもし出しています。 |
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