James McNeill Whistler(1834−1903)


ジェームズ・ホイッスラーは、アメリカ人として世界的な名声を博した最初の画家です。ウィンズロー・ホーマーとほぼ同時代人でしたが、ホーマーとは異なり、フランスやロンドンで活躍し、青年時代以降アメリカの地を踏むことはなかったにかかわらず、アメリカ絵画にも影響を与え、今日でもアメリカ人の誇りとなっています。

ホイッスラーの活躍した時代は19世紀の後半で、ヨーロッパの絵画は印象派への転換期にあたっていました。ホイッスラーはマネやドガ、ピサロとも親交を持ち、また、ジャポニズムをヨーロッパに橋渡ししたことで知られていますが、今日では印象派の巨人たちに比肩しうるような偉大な画家とはみなされていません。しかし、精密なリアリズムの手法から脱して、対象を自由に再構成しようとする作風は、今日の絵画に通ずる精神をもったものとして、再評価されています。

ホイッスラーは画家であるとともに、ウィットにとんだ批評家としても知られていました。批評家としては、ボードレールやサッカレイ、ラスキンとも親交がありましたが、ラスキンとは後に、名誉毀損訴訟で対立するに至り、その訴訟費用で破産してしまいました。こんなホイッスラーの横顔を、マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」のなかで、エルスティールという人物に託して描いています。

ジェームズ・ホイッスラーは鉄道技師の子として、マサチューセッツに生まれました。父親がロシアでの鉄道建設に従事したため、少年時代をペテルブルグですごしました。父の死後アメリカに戻り、ウェスト・ポイントの陸軍学校に入りますが、不本意にして退学し、21歳でパリに渡りました。それ以降アメリカの地を踏むことはなかったのです。

パリでの修行時代、ホイッスラーはギュスターヴ・クールベの影響下に、リアリズム的な手法を学びました。しかし、30歳の頃には、リアリズムにとらわれない斬新な構図の絵を描くようになります。彼の代表作に「バタシー橋」という絵がありますが、広重に触発され,実際の形にとらわれずに再構成した構図は当時のヨーロッパ人には斬新にうつったといわれます。ホイッスラーは東洋には一度もいったことが無かったにかかわらず、東洋趣味の画家としての名声を確立しました。

ホイッスラーのパトロンにリーランドという商人がいましたが、この男の邸宅を飾るために、ホイッスラーは巨大な壁画群を製作しました。「ピーコック・ルーム」といわれる作品群です(1876−77)。だがその作品はリーランドの気に入らなかったようで、彼は諍いの果てに、パトロンを失うこととなりました。その直後、ホイッスラーはヴェニスに滞在し、多くのエッチング作品を発表します。これらの作品が再び評判を呼び、晩年の彼は、なんとか破産から立ち直ることができたのでした。


              

上の絵は「ブラック・アンド・レッド」と題された婦人の肖像画です。(1883年頃の製作)
ホイッスラーが水彩画を手がけ始めた最初の頃の作品です。彼が水彩画を本格的に始めるのはヴェニス滞在以降のことですが、油彩では表現できないものを水彩に発見して、多くの作品を描くようになります。その殆んどには製作年次が記されていません。


             

「ミリー・フィンチの肖像」(1884年頃) 肖像画はホイッスラーがもっともよく描いたジャンルです。ミリー・フィンチの肖像は油彩でも描いていますが、油彩のほうがややくすんだ色調になっているのに対し、この水彩画は明るくのびのびとしたものに仕上がっています。


          

「モレビー・ホール」(1884年頃)  ホイッスラーが水彩に見出した最大の効果とは、ウェット・イン・ウェットによる色彩と形態の流動化です。彼はその効果を楽しむかのように、このような小品を数多く描いています。


         

「ビーチ」(1890年頃)  晩年のホイッスラーは風景画を手がけるようになりました。この作品では、二つの水平線によって画面を3分割し、思い切って単純化した構図の中に、二人の人物をアクセントとして加えています。若い頃に吸収した浮世絵の影響がこんなところまで残っている例といえます。


              

「ホィブリー婦人の肖像」(1895年頃)  ホイッスラーの水彩画作品の傑作といわれるものです。ウェット・イン・ウェットを基調に、暗い背景から人物を浮き上がらせる手法は、少ない絵の具でコントロールされた色調とあいまって、人物のイメージを象徴的なものにする効果をもたらしています。





   

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